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Old Tales from Nekoshima | The Myth of Abe-no-Seimei in Nekoshima

A place called Nekoshima

明野町史資料第一集 明野町の小字名図より引用

猫がいっぱいいた!?

猫島という地名の由来には諸説あるようです。まずひとつ目として、史実を追いながら、高松家に遺る「晴明伝記」載る物語を紹介しましょう。

【史実の部分】
奈良時代の霊亀2年(716年)、学者である吉備真備きびのまきびが第9次遣唐留学生として、 阿倍仲麻呂あべのなかまろらと共に唐に渡りました。 遣唐留学生たちは、唐で最先端の学問を学び、特に吉備真備と阿倍仲麻呂は知識人として頭角を現しました。 吉備真備は、天平7年(735年)に多くの書物と共に帰国しました。
その約15年後の天平勝宝年間に再び唐に渡ることになった吉備真備。 そこでかつての同志の阿倍仲麻呂と再会します。 帰国することなく唐に残っていた阿倍仲麻呂は、唐の高官にまで上り詰めておりました。 その結果、吉備真備は宮殿の府庫の全ての書物に触れることを許されるという、破格の厚遇を得ることが出来ました。
天平勝宝5年(753年)に吉備真備と阿倍仲麻呂は帰国の途に就きます。 吉備真備の乗った船は辛うじて屋久島へ漂着できましたが、阿倍仲麻呂の乗った船は帰国に失敗し、唐へ引き返さざるを得ませんでした。 その後、阿倍仲麻呂は帰国することなく、宝亀元年(770年)に唐の地で死んでしまいました。
帰国した吉備真備は歴代の天皇に仕え、右大臣にまで上り詰めました。 宝亀2年(771年)、77歳の時に朝廷の職を辞し、宝亀6年(775年)に81歳で没しました。
朝廷を離れたあと没するまでの4年間についての吉備真備の記録は残っておりません。 おそらくこの時期の事が「晴明伝記」に繋がるのではないと考えられます。
【伝説の部分】
吉備真備は、唐から持ち帰った陰陽道に関する書「金烏玉兎集きんうぎょくとしゅう」を 阿倍仲麻呂の子に委ねようと、常陸國の筑波山麓を訪ねてきました。 その時に、数千匹にもなろうかという猫たちに取り囲まれてしまいました。 どうにも進めなくなってしまった所に、6・7歳くらいの美しい童子が現れ、猫を追い払ってくれました。
この童子こそが、阿倍仲麻呂の子(名を満月丸という)であり、約200年の後に陰陽師となる安倍晴明のおやでもあります。 この時の逸話が基になって「猫島」という地名が名付けられました。

国土地理院地図タイルを利用して作成

子の小島 →  ネコシマ

もうひとつ由来に関わる興味深いお話をしましょう。これは明野に住む古老が語ったお話です。

猫島は宮山の鹿島様からこちらの方角がの方(北)になるんです。 子の方角にね、それで、「子の小島」と言った人があるんですが、それがだんだんつまって「猫島」になったって言うんだ。
なんかこう、十二支のあれで、昔はあれですからね…。 だから地名なんかも、こう神社とかそういう仏閣とかいうのを基準にして、出来ていますからね。 だから、そんなものもあるんですね。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より引用
子の方角にある島(集落)だから「子の島」。それが詰まって「猫島」となったという過程は、充分に説得力のある話だと思います。
そして、猫島の集落の中に「猫手」という小字こあざがあります。これを「ちょっけ」読みます。こちらについても古老が次のように語っています。
そうですね。いろいろあるみたいですね。猫島と言われるあれはね。 猫手ちょっけという集落に、何かあのあたりに猫がたくさんいたとか。 ちょっかい、って面白いですね。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より引用
猫がたくさんいてチョッカイを出してくるから猫手ちょっけと言うとか、なんとも可愛らしい由来ですね。

Places Related to Abe-no-Seimei

晴明橋せいめいばし

江戸時代には猫島の集落の中に「晴明橋」という小字があったようです。また、古老の語るところによれば、晴明橋という名前の橋もあったとの事。集落内の溜池から流れ出た小川が米御膳神社の西側の水田の水を補っていました。この小川に架かっていた橋を「晴明橋」と呼んでいたそうです。この橋は安倍晴明によって、地元産の御影石を使って設計されたと伝わり、堰堤を兼ねた橋で、どんな洪水や増水にも耐え、水が橋を超えることは無かったと言われます。

小川や晴明橋は区画整地の時に無くなってしまいました。橋があったとされる場所は、現在は「晴明橋公園」となっており、説明碑と晴明橋の石(元晴明橋石)が建てられています。

明野町史資料第十二集 明野町の村絵図より引用

晴明神社せいめいじんじゃ

猫島の高松家の敷地内、北西の位置に鎮座している小さな神社です。中央に大きめの祠、両脇に小さめの祠が並んでいます。 高松家に伝わる「晴明伝記」によれば、安倍晴明の先祖である阿倍仲麻呂を八幡大菩薩として祀り、信田明神として稲荷大明神を祀っているとのこと。信田明神とは晴明の母・葛の葉の事です。高松家では12月8日を祭日として赤飯を炊き、お供えをしています。

陰陽道では、北西という方角を「天門」と言います。天門は特に重要で、魑魅魍魎・怨霊・災いが出入りする忌むべき方角であると説きます。この天門を鎮めると、家運が永久に栄え、子孫が繁昌すると信じられ、氏神や屋敷神を祀ることが大吉であると言われます。

五角の井戸ごかくのいど

高松家の晴明神社の傍らに直径3mくらいの窪みがあります。これを「五角の井戸(晴明井戸)」と呼んでいます。 残念ながら現在は枯れてしまっていますが、かつては清水で満たされ、晴明が鹿島神宮の龍神より授かった水であったと伝わります。 窪みを上から覗いてみると、形が何となく五角形に見えるような感じがしませんか?この形も陰陽道に通ずる五行思想に由来します。そして、昔話として古老が次のように語っています。

晴明神社には昔、お乳の出ない人がその水をもらいに来て、それを飲むとお乳が出たっていわれていたね。 また、病気にもならないと言われていた。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より引用

晴明塚せいめいづか

高松家の敷地内にある旧跡です。疫病が流行った時、晴明はこの場所から筑波山方面に矢を放ち鎮めたと伝わります。 その時に放たれた矢が落ちた場所が、現在のつくば市 一の矢と言われています。一の矢までは直線距離にして約17.5km、その場所には八坂神社が鎮座しております。(神社創建の由緒に関しては諸説アリ)

全国の多くの八坂神社では、かつて疫病を司る神・牛頭天王こずてんのうを祀っていました。この牛頭天王は陰陽道に深く関わる神で、蘇民将来の説話と共に全国に広まりました。除災の護符に「蘇民将来子孫之門」や「晴明紋」が記され、夏の神社の風物詩である茅の輪くぐりも蘇民将来の説話に由来します。

Nekoshima and Nearby Local Historic Sites

米御膳神社よねごぜんじんじゃ

猫島に鎮座する神社です。創建は今から千年以上前の天慶・天暦年間(西暦950年頃)と言われております。 ご祭神は保食神うけもちのかみで、五穀をはじめとする食物の神、養蚕の神であります。 神社創建に関して次のような話が伝わっています。

この地一円年ごとに凶作にして村人は困窮していた。そこで村全体で豊作祈願を行った所、五穀は大いに実り、 村人たちは歓喜して保食神をこの地に勧請かんじょう(有力な神社から分霊をして祀る事)したという。
茨城県神社誌 より
また、現在では途絶えてしまっていますが、昔は「ホイホイ祭り」というお祭りもあったようです。
祭りは毎年11月15日の丑の刻(午前1時~3時)に執り行われる。神饌にはキビ・鰯・甘酒などを供える。 氏子たちは子の刻(午前0時頃)から「ホーイ、ホーイホイ、ホイホーイ」と大声で叫びながら参集し、 神主は潔斎し神事を執り行う。直会には食べ競うくらいのご馳走が振舞われた。俗にいう、ホイホイ祭りである。
明野町史資料 第二十二集 明野の神社と寺院 より

鹿島神社かしまじんじゃ

武甕槌命たけみかづちのみことを祀ります。 創建については不詳ですが、延宝7年(1679年)の「新鹿島大神宮之縁起」に興味深い記述があります。 大化の改新で有名な中臣鎌足の父である中臣御食子なかとみ の みけこが、この神社の創建に関わっているというのです。 中臣御食子は天児屋根命あめのこやねのみことの子孫で、鹿島神宮の神官を務めていました。 その職務の中で宮山を地域を訪れた時に、鹿島神を勧請したとの事。

神仏習合の時代には、観音堂(宮山観音堂)の奥院として信仰されていました。 また隣にある駒形神社に祀られている馬像も神仏習合の名残です。 宮山観音堂の観音様は牛馬の守護を司ると崇敬されていましたが、神仏分離の時に観音堂から分離されて、現在の駒形神社に祀られるようになったようです。
ある古老の語るところによれば、宮山観音堂の本尊は馬頭観音と言われていたらしい。 ただ、現在、宮山観音堂の本尊は十一面観音なので齟齬があります。かつては馬頭観音もあったのか、単なる誤認なのかは不明です。

鹿島神社に至る長い参道について面白い話を古老が語っています。

これも昔、建立の年号や何かは、全然分からないんですが、宮山の観音様も奥の院っていうのがあるんだ。 鹿島様ってゆう神社なんだ。 そこへ行くのには、コンコンコンコンと音のする下が空洞になっているような所を通るんだ。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より
何やら謎めいた話ですね。地下空洞説・・・参道沿いに古墳や巨石遺跡があるくらいですから、もしかすると地下には古代の宇宙人の痕跡があるのかも!?

宮山観音堂みややまかんのんどう

宮山観音堂はかつてあった真言宗の寺院・無量院の観音堂です。堂宇は享保8年(1723年)の造営で、筑西市の指定文化財です。 手がけた棟梁は現在の笠間市出身の大工で、後に成田山新勝寺の三重塔などもてがけております。 非常にバランスが良い堂宇で、特に内部の装飾は素晴らしく、一見の価値アリです。
また、本尊は十一面観音菩薩であり、こちらも筑西市の指定文化財です。かつての神仏習合時代には、鹿島神の本地仏として祀られていました。 現在は毎年、成人の日に御開帳されます。

こちらの観音様は牛馬の守護としても崇敬を集めていたようです。また、かつては「草競馬」も行われていたようで、古老が次のように語っています。

宮山の観音様では草競馬があったんだ。本尊が馬頭観音様だから、馬に乗って来る人も多かったし、競馬をするのにやはり良かったですね。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より
競馬のある日には、境内ではシマザサという葉っぱが売られていたようです。それを買ってきて馬に食べさせると病気にならいらしい。
昔は農馬がいっぱいいたので、草競馬というイベントは大変に人気があったようです。 お金を賭けるような競馬ではなく、走らせて一等になったとか二等だったとか自慢のネタにしていました。 現在では農馬は機械に置き換わり、競馬する場所も無くなってしまいました。 道端にひっそりと佇む「馬頭観音」の野仏だけがその当時の面影を残すだけです。

宮山石倉遺跡みややまいしくらいせき

鹿島神社の後ろにある巨石群です。標高は48mあり、この辺りでは最も高い場所になります。 この遺跡の巨石群が自然の造形によるモノか、人工的なモノか、議論は尽きませんが、古代から祭祀がここで行われていた事には違いはないはずです。
遺跡の巨石には「弘法大師の硯石」という名前も付けられていて、ここに溜まった水で墨を擦って習字をすると字が上達するという言い伝えがあります。 また、古老が次のようにも語っています。

ここの所には、大きな硯石とも言うんだが、石があるんだよ。 そこには穴があんだよ。それは、いかなる旱魃でも水が絶えたことがないって言うんだ。 硯石っていう石はその端の方に、少し窪みがあるんだよ。 その水を少し分けてもらってきて、お粥炊いて食べると、お乳が出るなんて説もあったんだな。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より
戦時中に飛行場を作るために石を取ってしまったので、遺跡の西側は少々なだらかになっていますが、東側は手付かずのまま残されています。 東側に沿って遺跡の石を注意深く観察すると、人面のようなモノが彫られている巨石が見つかるハズです。是非、探してみてくださいね!

雲井宮郷造神社くもいのみやくにのみやつこじんじゃ

筑西市内では最古の神社で、新治國にいばりのくにの一之宮でした。 新治國とは、律令制に従い常陸國ひたちのくにが成立する前の國の事です。 御鎮座は景行けいこう天皇41年と伝わり、西暦で言うと110年頃になります。 ただ、考古学的な観点から鑑みると古墳時代の4~5世紀頃と考えるのが妥当でしょう。

現在のご祭神は、主祭神に武甕槌命たけみかづちのみこと
左配祀神に、大国主命おおくにぬしのみこと建御名方命たけみなかたのみこと
右配祀神に、事代主命ことしろぬしのみこと毗那良珠命ひならすのみこと

日本神話「國譲り」の主役が勢揃いしていますね。その中で聞きなれない御名が毗那良珠命かと思います。 この御祭神は、新治國の國造くにのみやつこで、新治の國を開拓した人物になります。 順番としては次とようになります。開拓の折に、毗那良珠命がこの地に武甕槌命・大国主命・事代主命を祀りました。 その後、毗那良珠命の子孫である車持命くらもちのみことが祖神として毗那良珠命を配祀しました。 建御名方命は小田家による配祀と伝わっています。 また、車持命の名前が現在の「倉持」の由来になっているそうです。
ちなみに毗那良珠命の墓と言われる前方後円墳が筑西市内に残っています。それが葦間山あしまやま古墳です。 宮山からはちょっと距離がありますが、お参りしてみてはいかがでしょうか?