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Abe-no-Seimei | The Myth of Abe-no-Seimei in Nekoshima

A person named Abe-no-Seimei as a historical fact

安倍晴明(菊池容斎・画『前賢故実』)Wikipediaより引用

出生ついて

安倍晴明の出生について(生年月日や生誕地など)確実なことは分かっておりません。 生年月日については、没年月日と年齢が分かるのでそこから逆算しての算出に依ります。

生:921年2月21日(延喜21年1月11日)
没:1005年10月31日(寛弘2年9月26日)

平安時代を生きた人物で、この当時としては長寿で85歳で亡くなりました。
生誕地に関しての情報は、後世に書かれた複数の文書の中に見ることができますが、史実としての裏付けに足る証拠が十分とは言えない状況です。 その中のいくつかを紹介しましょう。

  • 茨城県 筑西市 猫島 説(出典:簠簋抄ほきしょう
  • 大阪府 大阪市 阿倍野区 阿倍野 説(出典:安倍晴明神社社伝)
  • 香川県 高松市 説(出典:空華日用工夫略集 など)
  • 奈良県 桜井市 安倍寺跡 説

セイメイ? ハルアキラ?

現在、私たちは「晴明」を「セイメイ」と当たり前のように読んでいますが、実は平安時代当時にどういう読み方をしていたか、確実なことは分かっていません。 「ハルアキ」「ハルアキラ」「ハレアキラ」・・・色んな可能性があります。大河ドラマ『光る君へ』では「ハルアキラ」と読んでいますね。

安倍晴明は遅咲きだった

後世の創作物による脚色のせいか、幼少期から呪術を行う天才陰陽師のイメージがありますが、安倍晴明という名前が歴史の表舞台に登場するのは、彼が40歳の時。 この時に晴明は陰陽寮で陰陽道を学ぶ学生として、初めて文書の中に登場します。 それ以前の晴明が何を生業としていたかについては、よく分かっていませんが、朝廷内の下級官吏として雑務を行っていたらしいのです。 その生活の中で陰陽道に興味を持ったのか、もともと天地に関する勘が鋭かったのかは分かりませんが、数々の陰陽師に弟子入りを志願します。しかしながら、尽く断られました。 その中で唯一、賀茂保憲だけが晴明の術の実践力を評価し、弟子入りが認められました。 この時の晴明の陰陽道は独学または自己流に近いものだったのでしょう。正しい知識を学びなおすために陰陽寮で勉強をしていたと考えられます。 また、「術」というものは、「師匠から弟子への伝授」という段階を経ないと意味をなさない、という思いもあったかもしれません。
それでも実践力が高かったために、師匠の保憲のアシスタントとして活躍の場が増えていきます。 晴明52歳の時に天文博士を任ぜられ、57歳の時に師匠の賀茂保憲が亡くなります。 師匠の死後は、晴明が陰陽道の第一人者としてより頭角を現し、より天皇に近い所で仕事をするようになりました。 そして、85歳の時に亡くなりました。

A person named Abe-no-Seimei in Seimei-Denki

猫島の高松家に代々伝わる『晴明伝記』を読み解いて行きましょう。 まず冒頭に「晴明博士は吉備真備の子孫であり常陸國真壁郡猫島に故郷がある。」と記されています。 歴史の教科書で習ったことをよぉーく思い出してみると、若干「?」な部分がありますね。

以下、本文へと続きますが、内容が分かりやすように箇条書きで追っていきます。

  1. 阿倍仲麻呂の父は、遣唐使として唐に渡った時、貢物が少ないという理由で有罪となり帰国することが許されなかった。
  2. その後、霊亀2年(716年)に阿倍仲麻呂が入唐した。文献では遣唐使としてとあるが、実際は父を探すためであった。父子ともに帰国は叶わず、唐の地で死んだ。
  3. 同じ時に遣唐使として渡った吉備真備が帰国できたのは20年後の天平7年(735年)。帰国後、左大臣に任ぜられる。
  4. 帰国した吉備真備は阿倍仲麻呂に世話になったことを思い出し、唐から持ち帰った宝書は、仲麻呂の子孫に託すべきだと考えるようになった。
  5. ある日、仲麻呂の子孫は「東天の和歌の山下に有るべし」というお告げを夢に見る。
  6. 「東天の和歌の山下」とは筑波山の麓であると確信し、真壁郡を訪れた。
  7. 真壁郡の猫島に着いたときに、何処からともなく現れた数千匹の猫に取り囲まれて一歩も動くことができなくなってしまった。
  8. 困っていると、たくさんの子供たちが集まってきて、気が付くと猫はいなくなっていた。
  9. その子供たちの中の一人に目が留まった。とても聡明な雰囲気の少年である。
  10. その少年と話をしてみると、母は信田姫であるという。 母は「恋しくば 尋ね来て見よ 和泉成る しの田の森の うらみ葛の葉」という詩を残して消えてしまったという。
  11. これを聞いた吉備真備は、これこそ神のお告げだろうと確信した。しばらくの期間、猫島に留まり、この少年に陰陽道の宝書と証文を残した。
  12. この少年は才能が鋭く、一を聞いて十を知る才能があった。
  13. 大人になり都へ登ると、天皇の御殿で不思議な占いをし、その功績で従四位を任ぜられ、その時が3月だったので「晴明」と名乗るようになった。 陰陽博士安倍晴明である。
  14. 花山院天皇の御代である寛和のころ(986年ごろ)に、一度、猫島に戻ってきている。 そして、随心水(五角の井戸)がある限り、神の御恵みが末代まで続くだろうと言い残し、村を一周して再び都へ戻っていった。
  15. この道中で立ち寄った場所に「晴明」という名が、常陸國の中には残されている。
  16. ・・・という内容のことを、承久元年(1219年)頃に、晴月という人物が都より猫島にやってきて書き記していった。
  17. 宝書の在処などすべてを書き記し八幡に納めたと伝わるが、その後の戦乱により焼失してしまった。
いかがでしょうか?・・・つまるところ「晴明伝記」のオリジナル版は、承久年間に晴月と名乗る人物が書き記した文書になりますが、 そのオリジナル版は戦乱で燃えて無くなってしまいました。 その後、口伝でのみ残された内容を宝永8年(1711年)に版木に書き起こしました、という流れになっているようです。

まず気になるところは、吉備真備が託した少年が安倍晴明である場合、時代が200年くらい飛んでしまっている所ですね。 吉備真備の没年は775年、安倍晴明の生誕は921年・・・。
「3月に乗じて晴明と名付けた」という辺りは、良い感じですね。晴明もとい清明は、二十四節気の三月節(旧暦2月後半から3月前半)を指します。 現在の暦では4月5日頃、桜が満開となる季節です。
晴明が65歳のころに一度、猫島に戻ってきているという部分も良いですね。茨城県内には「晴明」と名がついている川とか、確かにいくつかあります。
晴明の死から200年後に晴月という人物がやってきた部分・・・この人は安倍晴明の子孫でしょうか。ここらへんも謎ですね。

ファンタジー要素は多いと感じますが、吉備真備が遣唐使として唐に渡った年など史実に正しい部分もあります。なかなか判断が難しい所です。 最終的にどう考えるかは皆さんそれぞれかなと思います。

個人的には文書の中に気になる部分がいくつかあります。表紙を捲った最初に書いてある二柱、速秋津彦神はやあきつひこのかみ速秋津姫神はやあきつひめのかみ。 この神は、祓戸大神はらえどのおおかみの四柱のうちの一柱である速開都姫神はやあきつひめのかみと同神であり、 祓詞はらえことばという祝詞の中で、 瀬織津姫神せおりつひめのかみから受け取った罪穢れを川と海の境で飲み込む神として奏上されます。 また古事記に登場する水戸神みなとのかみと同神とも言われ、いわゆる、河口や港を司る神でもあります。 さらに神名の表記(使っている漢字)に注目すると、この表記は先代旧事本紀せんだいくじほんぎの第一巻「陰陽本紀」と同じです。
つまり、この神は完全に神道の神であり、当時としては主流だった神仏習合的な扱いではありません。 また、あまりパッと出で名前が出てくる(一般民衆が親しみやすい、或いは、分かりやすい)神ではないので、何らかの深い意味があっての記述かと考えられます。 この文書の本質はここにあるのではないか、と個人的な興味を掻き立てられます。

A person named Abe-no-Seimei by old man in Nekoshima

明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より

明野町史資料第二十三集「明野の聞き語り」の中に、古老が安倍晴明について語っています。いくつかを抜粋してご紹介します。

伝説は吉備真備の子として晴明は出てくるのもあるね。時代がずれてんな。二百年くらい。 でもそういう風に、誰かが脚色したものかね。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より
安倍晴明は高松さんの屋敷内に住んでいたという言い伝えもあるんです。 昔のことだからその辺りのところは、はっきりとは分からないのですが。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より
やはり高松家と晴明伝記がベースとなっているようです。ただ、信憑性というか史実としての確実性は微妙・・・と言った所ですね。

かつて、松原集落のヒョットコ芝居では安倍晴明伝説に基づき「信田妻」を上演していました。要約すると次のような内容です。
晴明の父は保名やすなといい、悪衛門に狩り出された狐の命を助ける。 恩を感じた狐は女の姿となって保名の妻となる。 そこから生まれたのが晴明ということになる。 ある日、庭前の菊の花に見とれていた母は、つい狐の本性を現してしまい、我が子に見つかり、信太の森へ帰って行った。
保名と子供は母を訪ねて信太の森へ行き、母親を見つけ、その時に子供は霊力を授かったという。 この子が晴明で、帝の病気を治したり、父を祈祷によって蘇生させたりする。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より
古老も芝居について次のように語っています。
その障子、左書きに書いてあったんだな。裏から見れば読めるようによ。 ヒョットコでやんのは、そうなんだ。なかなか左の字で書くんだから、容易じゃないよ。それをやったんですよ。 でー、「恋しくば、訪ねてき来てみよ、篠田なる、恨み、葛の葉」っていう歌なんだ。
* * * 中略 * * * 
安倍晴明は分かったんだって。分かるんだってゆうから、偉い。 狐の子供に俺も生まれたかったような気がする。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より
猫島の集落内には「晴明」の名前がいくつも残っています。晴明稲荷、晴明の井戸、晴明塚、晴明船つなぎの柳・・・。 たとえ伝説であっても、大切にしたいという想いが伝わってきます。
明野町史資料「明野の聞き語り」は次のように締めくくっています。
やはり、地元の伝説を大切にしていたものと思われる。事実はともあれ、大切にしたい伝説である。
明野町史資料 第二十三集 明野の聞き語り より

A person named Abe-no-Seimei in Hoki-Syou

簠簋抄ほきしょうとは、陰陽道に基づく占術の専門書に関する注釈本とされます。作者や成立年代に関しては不詳。 現存する最古の本は江戸時代の寛永4年(1628年)に作られた活字版であり、これは国立国会図書館デジタルコレクションの中で閲覧することが可能な状態となっています。
特に、簠簋抄 5巻 [1]の前半は、高松家の「晴明伝記」の内容とほぼ同じと読める部分が多くあります。 ただし、情報量の多さは簠簋抄のほうが勝り、その差を鑑みると、簠簋抄を参考にしつつ晴明伝記(宝永版・高松家現存)を書き起こしたのではないかと考えられます。 簠簋抄と晴明伝記との間の情報の差分を箇条書きにしてみます。

  1. 吉備真備が唐より持ち帰り、阿倍仲麻呂の子孫に託そうと考えた宝書は「金烏玉兎集」という。
  2. 「仲麻呂の子孫は、筑波根の麓に吉生という所、または、真壁郡猫嶋という所」にいることを知り、吉備真備は吉生に立ち寄った。
  3. 吉生で6・7歳くらいの子供たちが12・3人遊んでいた。その中の一人に目を引く少年がいた。(猫に囲まれた話は無い) 不思議に思い、古老に尋ねると、その少年が仲麻呂の子孫であるという。
  4. この少年が後に鹿島に籠り、不思議な術を身に着けていく。烏の言葉を理解したり・・・など
  5. さらには都に登り、天皇の為に占いをし御殿に召し抱えられるようになった。それが三月だったので清明と名乗るようになった。(この部分は晴明伝記と同じ)
  6. そして子々孫々に「清明」と名乗った。
  7. 「生国筑波根ノ麓猫島ノ生ノ人カト云」という部分に繋がる。
簠簋抄ではセイメイを「清明」と表記しています。 また、吉備真備が宝書を渡した少年≠安倍晴明という仕立てで話が進むので、晴明伝記で気になった200年のギャップがきちんと処理されています。

『安倍晴明物語』という本が寛文2年(西暦1662年)に刊行さえています。 この本は簠簋抄の序文をベースに、平安・鎌倉・室町時代に刊行された説話集に採録された晴明の伝承のいくつかをピックアップして挿入し、 それらがあたかも時系列順に生じたかのような体裁をとっているようです。
ここから先は個人的な予測です。『安倍晴明物語』や『簠簋抄』、そのほか『先代旧事本紀』などを知った 相当に賢い猫島村民が創作したオリジナル晴明物語が『晴明伝記』なのではないかとも思えるのです。 ただ、『安倍晴明物語』も『晴明伝記』も根っこは『簠簋抄』に繋がっているので、「晴明の生まれが猫島」という部分が、猫島村民による100%創作だということにはなりません。 そもそも『簠簋抄』がいつの時代に誰が書いたのもなのか・・・それが最大の謎なのです。