猫島という地名の由来には諸説あるようです。まずひとつ目として、史実を追いながら、高松家に遺る「晴明伝記」載る物語を紹介しましょう。
もうひとつ由来に関わる興味深いお話をしましょう。これは明野に住む古老が語ったお話です。
江戸時代には猫島の集落の中に「晴明橋」という小字があったようです。また、古老の語るところによれば、晴明橋という名前の橋もあったとの事。集落内の溜池から流れ出た小川が米御膳神社の西側の水田の水を補っていました。この小川に架かっていた橋を「晴明橋」と呼んでいたそうです。この橋は安倍晴明によって、地元産の御影石を使って設計されたと伝わり、堰堤を兼ねた橋で、どんな洪水や増水にも耐え、水が橋を超えることは無かったと言われます。
小川や晴明橋は区画整地の時に無くなってしまいました。橋があったとされる場所は、現在は「晴明橋公園」となっており、説明碑と晴明橋の石(元晴明橋石)が建てられています。
猫島の高松家の敷地内、北西の位置に鎮座している小さな神社です。中央に大きめの祠、両脇に小さめの祠が並んでいます。
高松家に伝わる「晴明伝記」によれば、安倍晴明の先祖である阿倍仲麻呂を八幡大菩薩として祀り、信田明神として稲荷大明神を祀っているとのこと。信田明神とは晴明の母・葛の葉の事です。高松家では12月8日を祭日として赤飯を炊き、お供えをしています。
陰陽道では、北西という方角を「天門」と言います。天門は特に重要で、魑魅魍魎・怨霊・災いが出入りする忌むべき方角であると説きます。この天門を鎮めると、家運が永久に栄え、子孫が繁昌すると信じられ、氏神や屋敷神を祀ることが大吉であると言われます。
猫島に鎮座する神社です。創建は今から千年以上前の天慶・天暦年間(西暦950年頃)と言われております。 ご祭神は保食神で、五穀をはじめとする食物の神、養蚕の神であります。 神社創建に関して次のような話が伝わっています。
武甕槌命を祀ります。
創建については不詳ですが、延宝7年(1679年)の「新鹿島大神宮之縁起」に興味深い記述があります。
大化の改新で有名な中臣鎌足の父である中臣御食子が、この神社の創建に関わっているというのです。
中臣御食子は天児屋根命の子孫で、鹿島神宮の神官を務めていました。
その職務の中で宮山を地域を訪れた時に、鹿島神を勧請したとの事。
神仏習合の時代には、観音堂(宮山観音堂)の奥院として信仰されていました。
また隣にある駒形神社に祀られている馬像も神仏習合の名残です。
宮山観音堂の観音様は牛馬の守護を司ると崇敬されていましたが、神仏分離の時に観音堂から分離されて、現在の駒形神社に祀られるようになったようです。
ある古老の語るところによれば、宮山観音堂の本尊は馬頭観音と言われていたらしい。
ただ、現在、宮山観音堂の本尊は十一面観音なので齟齬があります。かつては馬頭観音もあったのか、単なる誤認なのかは不明です。
鹿島神社に至る長い参道について面白い話を古老が語っています。
宮山観音堂はかつてあった真言宗の寺院・無量院の観音堂です。堂宇は享保8年(1723年)の造営で、筑西市の指定文化財です。
手がけた棟梁は現在の笠間市出身の大工で、後に成田山新勝寺の三重塔などもてがけております。
非常にバランスが良い堂宇で、特に内部の装飾は素晴らしく、一見の価値アリです。
また、本尊は十一面観音菩薩であり、こちらも筑西市の指定文化財です。かつての神仏習合時代には、鹿島神の本地仏として祀られていました。
現在は毎年、成人の日に御開帳されます。
こちらの観音様は牛馬の守護としても崇敬を集めていたようです。また、かつては「草競馬」も行われていたようで、古老が次のように語っています。
鹿島神社の後ろにある巨石群です。標高は48mあり、この辺りでは最も高い場所になります。
この遺跡の巨石群が自然の造形によるモノか、人工的なモノか、議論は尽きませんが、古代から祭祀がここで行われていた事には違いはないはずです。
遺跡の巨石には「弘法大師の硯石」という名前も付けられていて、ここに溜まった水で墨を擦って習字をすると字が上達するという言い伝えがあります。
また、古老が次のようにも語っています。
筑西市内では最古の神社で、新治國の一之宮でした。
新治國とは、律令制に従い常陸國が成立する前の國の事です。
御鎮座は景行天皇41年と伝わり、西暦で言うと110年頃になります。
ただ、考古学的な観点から鑑みると古墳時代の4~5世紀頃と考えるのが妥当でしょう。
現在のご祭神は、主祭神に武甕槌命。
左配祀神に、大国主命と建御名方命。
右配祀神に、事代主命と毗那良珠命。
日本神話「國譲り」の主役が勢揃いしていますね。その中で聞きなれない御名が毗那良珠命かと思います。
この御祭神は、新治國の國造で、新治の國を開拓した人物になります。
順番としては次とようになります。開拓の折に、毗那良珠命がこの地に武甕槌命・大国主命・事代主命を祀りました。
その後、毗那良珠命の子孫である車持命が祖神として毗那良珠命を配祀しました。
建御名方命は小田家による配祀と伝わっています。
また、車持命の名前が現在の「倉持」の由来になっているそうです。
ちなみに毗那良珠命の墓と言われる前方後円墳が筑西市内に残っています。それが葦間山古墳です。
宮山からはちょっと距離がありますが、お参りしてみてはいかがでしょうか?